2014/06/22

夜のイメージから光への転換   ムンク壁画 「太陽」

 
   
 
   
1406munnku1-2.jpg
 ↑ この「叫び」という絵で有名なノルウェーの画家・エドヴァルド・ムンクの絵は、
内面の不安、絶望、憂鬱などが前面に出過ぎていて、
 (あえてそういう内面性と向きあい描かれているのでしょうが、)

私的には、好みとならず(直視しがたく) (ーー; 
引いていました。 


なので、そのムンクが
下記のような光の絵を描いていたことを、知りませんでした。
 これぞ食わず嫌いだったがゆえの(視野の)落とし穴というものかしら・・・・・・・。



「太陽」
 ノルウェー・オスロ大学の大講堂の壁画の一枚

1406munnku.jpg

  ~ 絵は、あとこれ様 http://artcoll.sblo.jp/ からお借りしました。~


7年の歳月をかけて完成させた講堂壁画の中心を成す絵で
フィヨルドの海に昇る太陽だそうです。


「美の巨人」のいうTV番組で取り上げられていて、あいにく忙しくしていて、
5分程度しか見られず
あれは何だった?という感じで、後で調べました。(笑)



恋人の女性が手にしたピストルの暴発事件が機で
放浪し、
神経症の発作で一旦精神病院に入院治療もし、

それらのプロセスを通して新しいムンクが生まれていったようですね。
詳しいことはまだ私の頭のなかでは調査中です。(笑)

(ムンクさんは、幻聴にも悩まされ、不安に満ち満ちた自己から
脱却したのだろうか?)



この絵には
自然回帰といった啓蒙的意図も感じ取れはしませんでしょうか?
大学講堂の絵なので、
啓蒙的意味合いは、当然のごとく意識したかもしれないけれど、
自らへの啓蒙もあったのかもしれません。

(大学講堂という、繊細かつ病的で自由放浪性さえある画家としてはイメージ違いの
ある種特殊な場の壁画を描くプロセスが、ムンクの内面を救ったという面も少なからず有るやも・・・・・・・・?)


絵は素朴さを残した原初的なイメージが表出され、
また原初を感じさせるようなタッチで描かれています。


揺れるような絵が主だったムンクとしては珍しく直線的タッチが見られますが、
単調な直線では無く、
むしろ揺れながら直線表現に向かってゆく心のプロセスの跡も、垣間見えるような・・・・・。


長い間、抱え続けた不安に揺れる内面があったからこそでしょうか?
線は繊細で、豊かで、何とも味わい深い表情を含んでいるように見えます。



たくさんの下絵を描く中でも揺れる内面はまだまだあったことでしょう・・・・・・
完成までの7年の歳月をとおして、次第に、陽炎立ち昇るような生命感のある直線表現に、そして太陽の降り注ぐ昼の輝きへ、向って行ったのかもしれません。


完成した絵は色鮮やかで、自然と溶け合い、豊潤で、なんと魅力的でしょうか。




叫びのムンク、夜のムンク、死のムンク、
これらのイメージを世界に焼き付けたムンク画業の
集大成ともなる絵が豊潤な光を感じさせるものであったことは、何という幸いでしょうか。
見る側にも
希望を感じさせてくれませんでしょうか?



ムンクが経た様々な課程が結局必要であったのだなということや・・・・・、
ピストルの暴発事件も
もしや影から光への転換を促すための神様からの贈り物だったのかも?などと、
思えば思えないわけでもない・・・・・・・・、そういう結果ともなった一枚に思えました。




* ムンク展が昨年から今年3月まで東京で開催されていたのですね。
先にこの「太陽」を知っていたら、興味を覚えたかもしれません。
 行くか行かないかは別として。

その展覧会を見に行かれた方達のブログで取り上げられている、
版画集「アルファとオメガ」は
陰惨な物語ながら、興味深いです。
こちらのアートブログ様で丁寧で紹介されています。




~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~





と、今日は珍しく朝からささっと記事を書きました。 ^^



土砂降りの雨予報ですが、こちらはまだ降っていません。
これからかな?


皆さま、雨季ではありますが、どうぞ良い休日を・・・・・・・・。


















絵や美術展&アートティックショップ
2014/06/20

ラフマニノフ演奏のラフマニノフ作曲:ピアノ協奏曲第2番&第3番  他

 
 
  
しっとりした情緒がありますね。
見ているだけで、気持ちがしっとり癒される気がします。

花菖蒲
熱田神宮にて
140610ayame.jpg



~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*



このところ(週1程度ですが)体力仕事をする回数が増えています。
家の中の古いものの手入れや掃除が主ですが、
体がそれほど頑健とは言いがたい私にとっては、結構な体力労働となり、
そういう日の夜ともなると、息が出来ないほど・・・・疲れていたりします。
 (orz 体力低下が・・・・・  (ToT)  昨今著しいような・・・・・。)


と、こういう作業時に、励ましの労働歌のごとくに
このところ決まって登場してくれているのが、(というか自分で選び、かけているのですが)
ラフマニエフ:ピアノ協奏曲第2番&第3番なのでした。


リピート設定でかけっぱなしにしていると、
作業の合間合間にふと耳に飛び込むラフマニノフの音楽が、
心に一服の清涼剤となり、労働作業の励ましになってくれました。


とは言え、ラフマニノフは軽い系ではなく重い系なのですけどね。
なぜか、妙に気持ちにフィットするのが不思議でした。




ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番は
フィギアスケートで、浅田真央さんがフリーの演技に採用していましたので、
全曲ではないものの断片を耳にした方は多いことでしょう。
たぶん先の冬季オリンピックを通して世界中で・・・・・。^^


第3番の方は
96年公開の映画「シャイン」で非常に強いインパクトで、映画内を彩っていましたので、
この映画でこの音楽を知った方も多いのではないでしょうか?
かくいう私も実はそうなのですが、
知ってしまうと好きになりハマったのでした。(笑)



演奏は
第2番第3番共、リヒテル版、アシュケナージ版と複数持って、
気持ちの要望次第で、適当に聞き比べたりもしているのですが、
このところの体力仕事のバックミュージックとしてフィットしたのは
これでした。
 

 
ラフマニノフ:自作自演~ピアノ協奏曲第2番&第3番ラフマニノフ:自作自演~ピアノ協奏曲第2番&第3番
(2007/11/07)
ラフマニノフ(セルゲイ)

商品詳細を見る



作曲家自身の演奏です。
淡々と、まるで自分が作った楽譜の検証でもしているがごとくの
冷静な姿勢で、味気ないほど素っ気なく、かつ謙虚に演奏されています。
オーケストラの方に少し力みや粗さも感じられない訳ではありませんが、
ピアノが主役の曲でもあり、さほど気になるものではありません。



ラフ自身の演奏の淡々・・・・・ぶりには
このCDを始めて聞いたころは、何と味気ないのだろうと驚いたぐらいです。
が、何度も聞くうちに、この味気なさがかえって味わいとなり、惹かれるようになりました。


曲そのものが憂愁を帯びています。
ラフマニノフ自身にとっては、すでに完成した楽譜にそれ以上の感情を込める必要はないのかもしれません。
曲に託した自らの人生を振り返りながら、検証もかねて冷静に演奏したのかも・・・・・などと思いも馳せられるようになり、

そのうち、ラフ、ピアノ協奏曲を聴きたいときに一番よく手にするのがこのCDになっていたのでした。
(2番も3番も一枚で続けて聞けますしね。便利便利・・・・ということも有りで。笑)




で、今週、新たに第3番のCDが加わりました。
それというのは
上のCDを聞き続けたその日の夕方(その日の作業はベランダと室内の鉢植えの植え替えでしたが、)
キッチンの仕事をしていると、
FMでアシュケナージ指揮のN響による第3番が放送され・・・・・・・、あれ?
絶妙なタイミングね~などと思いながら聴き、

まさにラフ漬けの一日でしたが、

さらには手元にない他の演奏家によるものも聴きたくなってしまい、
クチコミや聴き比べブログ様なども参考にさせていただいて、
チョイスしてみたのが
こちら



ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番/ヴォカリーズほかラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番/ヴォカリーズほか
(2012/12/05)
キーシン(エフゲニー)

商品詳細を見る



到着して早速聴いてみてビックリしました。
演奏家や指揮者の解釈によって、まるで違ったものになるという、良い例がここにありました。


ソフトで美しいです・・・・・・・ピアノ音がまるで光る水滴のよう・・・・・・・・。
オケはしなやかに流れる川のよう・・・・・・ボストン交響楽団、指揮は小澤征爾氏、93年ライブ録音です。


この演奏がラフマニノフ曲の正しい演奏と言えるのかどうかは判りかねますが、
キーシン氏ピアノのエレガントでさえある柔らかさは、
ラフ演奏の中では異彩を放っていると言えるのではないだろうか。


まだ聴き始めたばかりですが、どうやら好きになれそうで、愛聴版の一枚となりそうです。






音楽は良いなと思います。
手元にあるCDはクラシックかヒーリング系かのどちらかで、
主にヒーリング系がかかっていることが多いのですが、
元々はクラシック好きで、
クラシックは(曲によってですが)ヒーリングや瞑想向け扱いとしても、良いものです。



甘美な面も有り、また憂愁を帯びたラフマニノフは日本人好みだそうですが、はてさて?
 取りあえず私は好きですが・・・・・・・・・・。




ついでながら、下はキーシン氏が
95年にボストン交響楽団と共演した際の録画です。
チャイコフスキー: ピアノ協奏曲第1番ですが、
キーシン氏のピアノや、
まだお若くバリバリでお元気だった頃の小澤氏のダイナミックなタクトぶりが味わえます。

(上記のラフマニノフ第3番で感じられる、曲と一体化しているような演奏そのものの完成度の高さという点は、
こちらは若干今一かな~?ですが、CDで聴くのでは味わえない臨場感が伝わりますし、
何度か聴いてみますと、これはこれで魅力的な演奏に思えます。

 キーシンさん、まるで女性のような綺麗な手の方なのですね。
ユーチューブにアップして下さっている方に感謝です。
会場でもここまでズームアップでは見られませんものね。)


※ 映像がなぜか途中から始まってしまうことがありますので、
その場合、ご自分でスタート位置に戻して視聴なさってね。
(2018年8月リンク切れに気付きましたので、リンクを外しました。┐(´-`)┌)
















音楽やバレー、オペラ ~クラシック&ヒーリング~
2014/06/02

この世での質量?  &  高村光太郎の詩「母を思う」

 


 
もう6月ですね。
早過ぎるような・・・・・・・・。


~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~



・・・・ 母が離れてゆき、
私の物質的質量が減る ・・・・
という夢を見ました。


母が、こちらの世界から遠ざかりつつあることは確かではあるものの、
それにより私の質量が減るとはどういうことなのか?
考えるということではないけれど、
ふと思いを巡らしました。



もともと人間は、母という女性の胎内から産まれています。
受精により母という女性の胎内細胞に変化が起き、
人型が新たに形作られ始め、
そこにスピリットが宿り、
胎内に居るころからアイデンティティも形成され始め、

月満ち
二つの個体になり、
環境や事情や教育などをとおして
さらにアイデンティティーが形成され、
やがて、まるでもともと一個の人間であったかのように、振る舞うようになる。


一心同体という言葉があるけれど
母子とは、
事情で離れたり、あるいは心に亀裂や摩擦が生じ、
一心同体とは言えない関係になったとしても、

元は一体同体なのだ。
これは凄い事実なのだ。

(最新医療の複雑な話ではなく、ごく普通のパターンの場合です。)




母が、本人の顕在意識上でも母である頃には、感じなかった喪失感が、
今すでに、私の胸の内にそれなりに有ることを認める。
元気なころの写真や動画が無性に見たくなる・・・・・・・・・・・・・。

喪失感とは理由など不要なのだと思う。



母がこの世を離れると、
この世での私の質量が減るというのも、案外わかるような気もする。
理屈ではなく・・・・・・・・・・・・・・・・・。



~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~




下記は、彫刻家であり詩人でもあった高村光太郎の詩です。

光太郎は実直な詩を数多く残しています。
「智恵子抄」は有名ですね。

この詩も知られているかも・・・・・・・・・・・・・。



「母を思う」


夜中に目を覚ましてかじりついた
あのむっとするふところの中のお乳
「お父さんとお母さんとどっちが好き」
夕暮れの背中の上でよくきかれたあの路地口


鑿で怪我をしたおれのうしろから
切り火を打って学校へ出してくれたあの朝


酔いしれて帰ってきたアトリエに
金釘流のあの手紙が待っていた巴里の一夜


立身出世しないおれをいつまでも信じきり
自分の一生の望みも捨てたあの凹んだ眼


やっとおれのうちの上り段をあがり
おれの太い腕に抱かれたがったあの小さなからだ


そうして今 死のうといふ時の
あの思いがけない権威ある変貌


母を思い出すとおれは愚にかえり
人生の底が抜けて
怖いものがなくなる どんな事があろうとも 
みんな
死んだ母が知っているやうな気がする





~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~*~~



中学性の頃、
この詩を読んで、ふいに涙が流れ落ちたのを思い出します。
(中学の頃は何かと両親との縁を考える年頃だったような・・・・・・・・・・・。)



現在、我が母は
おそらく今世最後となるだろう?ラストレッスン中です。
光あれ、安らぎあれ・・・・・・・・・・・・・・・・。
















母に捧げる
 | HOME |